永劫の一隅
「永劫の一隅」管理人・緋室十希が日々を綴っています。 たまに停滞します・・・。
「光と闇の狭間で」プロローグ
息を吸う。ヒューという音がする。
息を吐く。ゴボリという音がする。
もうその行為には意味が無いと判っていながらも、繰り返さずにはいられない。
それが止まるということが意味するのは、自身の死に他ならないから。
最早、その明らかにおかしい効果音でしか〈生きている〉と感じることができなくなっている自分に、自然と笑みが零れる。
ゴボリ。
笑い声を立てる筈の喉は、ただ歪な音を立てるだけで。笑うことすらできなくなったのか、と嘆きをも越えた妙に達観した感情が渦巻く。
ヒュー。
息が――命が洩れていく音が鳴りだしたのは、何時からか。
何故、こうなったのか。
最早それを知る術など無いと知りながらも、問う。誰にともなく。
“何故、俺を放っておいてくれなかった?”
勿論、答えは沈黙でしかない。他にこの場には誰もいないのだから、当たり前といえば当たり前だ。
けれど、もしかしたら誰かが――何かが答えてくれるかもしれない、と思った。
俺の日常を壊したのは、誰なのか――俺は知らないから。もしかしたら、と。
ゴ、ボごポ、ゴぼ。
また音がした。
今までに輪をかけて、歪んだ音。
目だけを動かして、視界に自身の体を映す。
――赤かった。
見えないところが殆どだが、見なくたって判る。
俺はきっと、自分の血液をとめどなく喀血しているのだろう。実感こそ無かったものの、容易に想像のつくことだ。
これだけ、体が血塗れならば。
血液は衣服だけでなく大地へも流れ落ちていくが、それらが赤く染まることはない。既に深紅に染まっているからだ。せいぜいその深さを増すか、面積を広げていくだけ。
夥しい量の血。体内を巡る血液はこんなにも多かったのか、と少々驚く。まあ、表情には表せないのだが。
とっくに身を起こすことすらままならなくなっていた俺が今できることは、背後にある崖に身を力無く寄りかからせることのみ。
体の傷みは激しいが、不思議と痛みはない。痛覚すらも麻痺してしまったのかもしれない。
段々と意識にも靄がかかり始め、視界が狭まってくる。
こうして思考を続けることすらも億劫になり始めるが、それだけはなんとか気力で持ちこたえる。
けれどそれも何時まで保つか。
それが途絶えた時、俺はどうなるのか。
判らないし、判りたくもない。
けれど、このままなら何時か息絶えるのは確かだ。
――尤も、〈死〉の無い〈生き物〉などいない訳だが。
しばらくは取り留めもなくそんなことを考えていたのだが。
やがて視界の端に在る何かに気づいた。
何時から在ったのかは判らないが――――何故今まで、気付かなかったのだろうか。
漆黒の闇の中でさえ輝きを失わないその姿に。
柔らかに閃くその姿に。
凛とした涼やかな雰囲気を身に纏うその姿に。
何故――気付かなかったのだろうか? これほどまでに圧倒的な存在感を示しているというのに。
それだけ俺が憔悴しきっていたのか。それとも、死の間際に見る幻影なのか。
どちらにせよ俺に死期が近付いているのは確かな訳だが。
けれど、その姿が純粋に美しいと思えたから、きっと死んでも後悔はしないだろうな、と思った。
そんな俺の意を知ってか知らずか、その幻影――おそらくは少年――は、一言も発しないまま、何をするでもなく只こちらを静かに見つめるだけだった。
しばらくはそんな静寂が辺りを占めていたが、やがて少年はポツリと一言呟いた。
「死ぬの?」
幼い容貌に合った、だがそれにしては落ち着いた声だった。
それが俺に対する問いかけだと気づくまでに、そう時間は必要なかった。
その内容を理解するには時間が必要だったのだが。
俺は、死ぬのだろうか。
自らも問う。
答えは無い。
判らない? ……そんな訳はない。
生有る者が行き着く先は〈死〉であるということは、自明の真理だろう。
だが、少年が問うているのはそんなことではない気がした。
もっと直接的な――疑問でなく確認のような。
だが、解せないことが一つある。
黙したまま俺を見つめ続ける少年は、一体俺に何を求めているのだろうか。
その真意だけが判らない。
けれども、問われたからには答えなければならない。
しかし、体を動かすどころか表情一つ変えることすら満足にできなくなった今の自分が、果たして答えられるのだろうか?
試しに口を開けようとする。相も変わらず喉の奥でゴボリという濁った音がするだけ。
思った通り、口頭手段は使えない。
ならば――どうする?
答えなければならない、だが答えはない。
答えなければならない、だが手段がない。
どうすればいい。
どうすれば答えが見つかる。
どうすれば伝えられる。
焦ってもしょうがないと判ってはいるが、つい気持ちだけが先走る。
ヒュー、ゴボリ。
気持ちを落ち着ける為に、改めて呼吸を一つ。それに伴い、滑稽な音が二つ。
嗚呼、まったく――本当に滑稽だ。
少年に問われてから、どれだけの時が流れたのかは判らない。
けれどそれからずっと思考を走らせた結果、とある一つの考えに行き着いた。
“お前――死に神か?”
静かに声もなく少年に問う。
少年は答えない。
気づいていないのか、それとも答えに窮しているのかは判らないが。
だが、もし。
“だとしたら――”
だが、もしそうならば。
“――悪いが、まだ俺の魂は運ばせない”
俺の答えは、只一つ。
“俺にはまだ、しなければならないことがある”
それが、少年の問いに対する答えの凡て。
伝えてはじめて、改めて実感する。
たったこれだけのことが俺を生かしているのだと。
我ながら――莫迦莫迦しいとは、判っているのだが。
しかし少年は笑わない。
こんな莫迦莫迦しい願いを一笑に付すことはしない。
少年はまったく表情を変えず、閉じていた口を再び開く。
「生きるの?」
“死ぬの”の次は“生きるの”か。この少年は一体何を問いたいのだろうか。
しかし、この問いかけが先程の答えを受けてのものだとすれば。
だとすれば、俺の答えは疾うに決まっている。
“そうだな。精々足掻こうか”
生きることは足掻くことだ、と昔誰かが俺に語った。
どれだけ無様でも、生きている以上に喜ばしいことはない。生きる為の努力は欠かすな、生有る限り足掻き続けろ。と。
誰が語ったかは覚えていない。
いつ語られたのかも忘れてしまった。
だが、何故かその事実だけを覚えている。きっと、共感できる何かがあったのだろう。
それにしても、今にも意識が途絶えかけていた俺が言うことではないな、と思うのだが。
少年はしばらく無表情のままだったが、やがて静かに双眸を閉じて何事かを呟きだした。
ポツリ、ポツリと呟かれる何か。
意味は解らないが、それぞれバラバラな言の葉が徐々に一つになっていくことだけが、なんとなく判る。
一つになるに連れ、大気が段々と歪んでゆく。何もできない俺を取り巻いてゆく。
やがて、完全に一つになり――――
「なら力を貸そう。只君が生きる為だけに」
何かが変わった――気がした。
それはきっと、長い永い物語の終わり。
それはきっと、一つの小さな物語の始まり。
そして、それは。
それはきっと、まだまだ序章に過ぎない。
| HOME |


